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zoom RSS 死体の写真を教室で見せることがすべて不適切とは限らない

<<   作成日時 : 2015/02/06 21:33   >>

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 名古屋の小学校で、授業の中で「イスラム国」の人質になった湯川さんの遺体が写った映像を使ったことを問題とする報道がたくさんなされています。

 報道自体や、その報道を受けて書かれたものを見ると、「子どもに遺体の写真を見せるなんてとんでもない先生だ」という論調が多いようですが、この先生の実践は、はたしてここまでたたかれなくてはならないようなものなのでしょうか。

 私は、この先生をたたく報道やそれを受けての論調にこそ危機感を覚えます。

 まず、今回問題とされていることは、教師によるセクハラややいじめへの加担のような、犯罪的な行為ではありません。あくまで、教育実践の内容に関した話です。
 それが、まるで犯罪行為を行ったかのような扱いを受けています。

 私は、今回の報道に関して納得がいかないことが多々あったので、さまざまな機関に電話をして、確認したり意見を述べたりしました。

 学校名を報道したあるテレビ局には、まず、学校名を発表するかしないかを判断する基準を尋ねました。
 すると、意見の窓口の人が担当の人に問い合わせた後に返ってきた返答は、
「警察から発表があった場合にはその通りに報道する場合がふつうです。」
というものでした。(警察発表だけに頼らず独自の取材もなしに記事にするのかとの疑問ももちましたが、今はそれはさておき、)刑事事件でもないのになぜ警察なのかと不審に思ったので、
「教育委員会の発表ではなく本当に警察の発表に基づいての記事ですか。」
と尋ねました。すると、今度は、
「地方局の取材なので、そちらへ問い合わせてください。」
ということでした。そこで、その地方局へ電話をかけて基準を聞くと、何と
「基準はわかりません。」
という返答でした。これには驚きました。

 この中には、数々の問題がありますが、まず気になったのが、「警察の発表」という言葉が出てきたことです。これは、刑事事件でもないのに、担当者がまるで刑事事件かのように受け止めていることに他なりません。

 問題とされているのは、犯罪ではなく、教育内容に関してなのです。あくまで、教育内容に関する論議であるべきです。まず、このような混同から整理した視点で論ずるべきです。 

 教育内容に対して、大きな力をもつものがその力を使って一方的な攻撃を加えることは許されないことだと考えます。それは、自由な教育活動を委縮させる恐れがあるからです。しかし、これは、学校教育に対して無批判であれと言っているのではありません。

 報道機関が、学校でなされている教育実践に関して、社会的な論議を引き起こすことが必要だと思うこともあるでしょう。その場合は、教育者の意図を含めた実践内容を丁寧に報道し、意見を求めるべきです。その結果、批判を受けることもあるでしょう。公教育に携わっているのですから、それは当然引き受けなくてはならないことです。しかし、事実に基づかない批判や、意図も踏まえない批判まで引き受けることはありません。

 報道内容に納得がいかない点があったところには電話をかけ、大きな力をもつ報道機関が、正確さにかけたり一方的にたたいたりするような報道をすれば、学校を委縮させてしまう結果を招くので、その点を考慮してほしいと要望を伝えたり抗議したりしました。

 多くの報道機関は、しっかり話を聞いてくれて、社内で共有しますと約束してくれました。
 しかし、中には、学校を委縮させるということに対して、
「そんなことを言ったら、教師がいじめのような行動をとっても報道できなくなってしまう。」
という声もありました。これは、先程書いた、犯罪行為と教育実践に関する論議の混同によるものです。自由な教育活動の委縮について危惧しているのですから、犯罪行為に目をつぶれと言っているわけでは決してありません。
「今取り上げているケースについての話を、言ってもいないことにまで広げないで下さい。」
と伝えましたが、わかってもらえたかどうか疑問です。

 また、
「教育委員会が写真を見せたことには問題があると報道しているのだから、新聞社を批判するのは論理的に破綻している。」
とも言われました。
 教育委員会が言っていることに対して新聞社に苦情を言えば、当然そうでしょう。しかし、教育委員会には教育委員会へ意見を伝えましたし、この新聞社は、教育委員会の発表だけでなく、新聞社の取材に基づき、実践に対して批判的な論調で書かれている部分があったため、その部分について意見を伝えたのですから、論理的に破綻しているということこそが論理的に破綻しています。
 
 新聞社には新聞社の考え方があっていいと思いますが、反論するのであれば、批判していることをきちんととらえた上で反論してほしいし、報道機関の社会的な影響力については充分考慮してほしいと思います。

 また、報道するかどうかの判断は、報道機関がしたのですから、報道の主体としての責任は報道機関にあるはずです。そういう面で、責任ある態度をとってほしいと思います。

 この新聞社には、過去に大変お世話になった記者さんがいらっしゃいます。彼の人を想う篤い報道姿勢には心を打たれ、彼の記事を読んで涙がぼろぼろとこぼれたことがあります。だから、私にとっては大切な新聞社だったのですが、それだけに残念でたまりません。

 さらに、愕然としてしまった言葉があります。
「新聞社への意見を伝えたいのですが、こちらへ伝えさせてもらっていいですか。」
と確認し、今回の報道についての新聞社の基本姿勢を確かめた後に、私の意見を伝えていたら、
「私個人に言わましても…。」
という言葉が返ってきました。
「私は、新聞社へ電話しているのですよ。あなた様の個人宅へお電話しているのではないのですよ。」
と伝えました。、脱力感に負けないように力を入れながら。


 今回の実践の内容は、私が見た範囲では最も詳しい朝日新聞デジタルによると、以下のようなものだったようです。

 校長によると、授業のテーマは「情報化が進むことによる利点と問題点」。東日本大震災後、見る人の心的苦痛を考え津波の映像を流さない放送局もあったが、報道で支援が広がったなどと教諭は説明し、「どこまで真実を報道することがよいか」を議論させた。

 議論に入る前に後藤さんらの映像を示す際、「見たくない人は見なくていい」と話すと児童35人のうちの5人ほどが頭を伏せた。今のことろ、体調を崩した児童はいないという。


 討論の仕方は、報道や電話での確認の中で、「イスラム国」の写真を網掛けをして報道した方がいいと思うグループとしない方がいいと思うグループに分かれて話し合う方法がとられたことがわかりました。

 報道機関が、この実践についての論議を促すのであれば、実践を正確に伝えなくてはなりません。特に、大切なのは、死体の写真を見ることを強要したわけではなく、子どもに選択できるように設定され、実際に子どもは選択していることと、体調を崩した子どもがいないことです。

 ところが、この事実を伝えた報道機関と伝えていない報道機関があります。子どもに選択させた事実を除いて写真を見せたと報道すれば、強要したかのように伝わります。
 また、体調を崩した子どもがいないことを伝えていない報道機関もあります。

 子どもが体調を崩したり、保護者が不安をもったりすれば、当然学校には説明責任があります。そのような場合であれば、子どもや保護者に対して学校は誠意をもって対応されることでしょう。
 しかし、報道によれば、外部からの通報によって問題化されたようです。しかも、不正確な報道がたくさんなされ、その上学校名までも報道されれば、当然、学校は受けなくてもいい批判までも受けることになります。

 私は、この実践には問題がないし、むしろ、子どもの思考力を高めるすばらしい実践だと思います。死体を写した写真を見るかどうかは、子どもが判断しています。5年生の終盤である子どもたちにはその判断力はあります。子どもたちも一生懸命考えたことでしょう。子どもが、今世の中で起こっていることをもとに真剣に考え合うことは、今や未来を主体的に考える姿勢を育む上で大切な取り組みです。
 
 もちろん、どのような実践にも賛否両論はあることでしょう。そのような論議をすることは大切なことです。しかし、つるし上げのような結果で学校を混乱に巻き込めば、せっかく一生懸命考えたであろう子どもたちをかき乱すおそれもあります。

 私は、批判を除くべきだとは決して思いませんが、今回の問題化の手法に問題を感じます。

 
 次に、残虐な写真を教育の現場で使うことについて考えてみたいと思います。

 教育委員会は、授業の設定には問題がないとしていますが、残虐な映像を学校で使ったことが問題だとしています。

 しかし、残虐な映像を学校で使うことがすべて問題だとは考えられません。

 もちろん、亡くなった方の写真を安易に用いたり興味本位で用いることは論外です。このような使い方は、当然除くという前提で話を進めます。

 例えば、戦争の悲惨さについて子どもに目を向けさせたいと思った場合に、子どもたちは戦争の経験がないのですから、戦争の現場で起こっていることを伝えなくては、戦争の姿に目を向けさせることになりません。

 そこで、どのような教材を用いるかが問題になります。
 その際に次のようなことに考慮しなくてはなりません。

○ 何をつかませたいのか目的を定める。
○ 目的に迫るためにはどのような教材が必要かを考える。
○ どこまで子どもが受け止められるか、発達段階やクラスや子どもの実態を考慮する。
○ 受け止め方の個人差を考慮する。
○ どこまで全員で見て、どこからは子どもの意思に任せるかを判断する。

 戦争の現実に向き合わせるのですから、無残な映像をまったく除くこともできません。しかし、むやみやたらと使用することも許されません。

 しかし、子どもたちの状況と目的を考え、子どもの意思を尊重したうえで、無残な姿で亡くなった子どもの姿に目を向けることもあるでしょう。

 以前、6年生にイラク戦争に目を向けさせるときに、このような手法をとりました。ある程度までは全員で見つめ、途中からは個人の判断に任せました。

 教師が真剣に向き合っていけば、子どもたちも一所懸命考えます。怖いけれど現実に向き合い、自分は怖くなったら画面を閉じることができるけれど、イラクの子どもにはその選択が許されないことに気付いていきました。また、戦争というものが、一般的にテレビなどで報道されているようななまやさしいものではないということにも気づいていきました。

 私自身が小学生だったとき、教室で死体の写真を見ました。毎日新聞が編集した原爆の写真集でした。お父さんが毎日新聞の記者である友達がもってきたもので、教室で見ることを担任の先生が許可しました。
 その写真集を友達といっしょに見て、今までにテレビで見た戦争の物語がいかに美化されていたかがはっきりとわかりました。

 日本では、死体を映さないことが一般的になっています。しかし、世界をながめてみると、決してそれが一般的とはいえません。

 昨年のイスラエルによるガザ攻撃の跡から、ソニー製の部品が発見されたという報道がありました。

 ガザからの報告(2014年夏)(22)ガザの瓦礫の中から発見されたソニー製品

 安倍政権は、イスラエルとの軍事産業の接触を深めています。日本製の武器で、外国の子どもが死んでいくのですから、その姿に網掛けをかけてしか報道されないことが通常だということに何の疑問をもたないことは許されることでしょうか。

 そのようなことを考えてみると、死体を写した映像を使ったということだけで担任の先生を非難する社会であっていいのだろうかと強く思います。

 日本社会が、人が死ぬことで儲かる社会に変貌しようしている今、日本人は、死体の映像に網掛けをすることが常識だという認識から脱却する覚悟をもたなくてはならないのではないでしょうか。

 

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